2009年08月09日

平成21年長崎平和宣言から

長崎市 平和・原爆 総合ページ

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/index.html

平成21年長崎平和宣言

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/appeal/


 今、私たち人間の前にはふたつの道があります。
 ひとつは、「核兵器のない世界」への道であり、もうひとつは、64年前の広島と長崎の破壊をくりかえす滅亡の道です。
 今年4月、チェコのプラハで、アメリカのバラク・オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと明言しました。ロシアと戦略兵器削減条約(START)の交渉を再開し、空も、海も、地下も、宇宙空間でも、核実験をすべて禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の批准を進め、核兵器に必要な高濃縮ウランやプルトニウムの生産を禁止する条約の締結に努めるなど、具体的な道筋を示したのです。「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的な責任がある」という強い決意に、被爆地でも感動がひろがりました。
 核超大国アメリカが、核兵器廃絶に向けてようやく一歩踏み出した歴史的な瞬間でした。

 しかし、翌5月には、国連安全保障理事会の決議に違反して、北朝鮮が2回目の核実験を強行しました。世界が核抑止力に頼り、核兵器が存在するかぎり、こうした危険な国家やテロリストが現れる可能性はなくなりません。北朝鮮の核兵器を国際社会は断固として廃棄させるとともに、核保有5カ国は、自らの核兵器の削減も進めるべきです。アメリカとロシアはもちろん、イギリス、フランス、中国も、核不拡散条約(NPT)の核軍縮の責務を誠実に果たすべきです。
 さらに徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求めます。インドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのです。
 日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければなりません。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、非核三原則をゆるぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきです。

 オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド首相、ザルダリ・パキスタン大統領、金正日・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アフマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者に呼びかけます。
 被爆地・長崎へ来てください。
 原爆資料館を訪れ、今も多くの遺骨が埋もれている被爆の跡地に立ってみてください。1945年8月9日11時2分の長崎。強力な放射線と、数千度もの熱線と、猛烈な爆風で破壊され、凄まじい炎に焼き尽くされた廃墟の静寂。7万4千人の死者の沈黙の叫び。7万5千人もの負傷者の呻き。犠牲者の無念の思いに、だれもが心ふるえるでしょう。
 かろうじて生き残った被爆者にも、みなさんは出会うはずです。高齢となった今も、放射線の後障害に苦しみながら、自らの経験を語り伝えようとする彼らの声を聞くでしょう。被爆の経験は共有できなくても、核兵器廃絶を目指す意識は共有できると信じて活動する若い世代の熱意にも心うごかされることでしょう。
今、長崎では「平和市長会議」を開催しています。来年2月には国内外のNGOが集まり、「核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」も開催します。来年の核不拡散条約再検討会議に向けて、市民とNGOと都市が結束を強めていこうとしています。
 長崎市民は、オバマ大統領に、被爆地・長崎の訪問を求める署名活動に取り組んでいます。歴史をつくる主役は、私たちひとりひとりです。指導者や政府だけに任せておいてはいけません。
 世界のみなさん、今こそ、それぞれの場所で、それぞれの暮らしの中で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、「核兵器のない世界」への道を共に歩んでいこうではありませんか。

 原子爆弾が投下されて64年の歳月が流れました。被爆者は高齢化しています。被爆者救済の立場から、実態に即した援護を急ぐように、あらためて日本政府に要望します。
 原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、核兵器廃絶のための努力を誓い、ここに宣言します。


2009年(平成21年)8月9日
長崎市長 田上 富久



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1953年12月にアイゼンハワー・アメリカ大統領が「アトムズ・
フォー・ピース」という演説を国連で行いました。
これからは核を平和的な方向で利用します、という形で現在の原子力
発電の商業利用開発が始まりました。

そもそも原子力という技術は広島・長崎におとされたアメリカの原子
爆弾の開発から始まっています。まず核兵器の技術として開発され、人間の命や建物、都市を破壊するためのものでした。

広島型原子爆弾にはウラン、長崎型原子爆弾にはプルトニウムが使用されました。現在、世界の核兵器のほとんどはプルトニウム型になっているそうです。2006年に核実験に成功したと主張する北朝鮮の核兵器もプルトニウム型と言われています。

日本は非核三原則「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」を掲げています。しかし、青森県の六ケ所再処理工場が本格稼働すれば、世界有数のプルトニウム生産国になってしまいます。

今日本が保有しているプルトニウムがどれくらいあるかというと、約40トンが海外にあります。イギリス、フランスに使用済み核燃料の再処理を頼んで、とにかくプルトニウムを取り出して高速増殖炉をやるんだといって、お願いをしていたんだけれども、高速増殖炉はできないで、プルトニウムだけできちゃいました。この他に日本国内に数トン。キロじゃないですよ、トンです。50キロで六カ国協議だと、4万キロあったら、何千カ国協議らいのことをやらないと。国連がいくつあっても足らないよっていう感じです。

 国内には数トンですが、返してくれと言わなくてもいずれ40トン返 ってきますし、北朝鮮とは少なくとも桁が違う。
ところで六ヶ所村 の再処理工場でどれくらいのプルトニウムができるかというと、1年間に8トンできると言われていますから、本格稼動すると、今持っている40数トンにプラスして、年に8トンずつプルトニウムが増えていっちゃう。

 今40数トンあるのが、来年50トン超え、再来年60トン、その次は70トン近くなる。4万キロからそういうことになってしまう。

これ、何の意味があるのでしょうか。

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日本国内にも核兵器を作ったほうがいいのではないか?核武装したほうがいいのではないか?という人もいます。政治家にももちろんいるようです。
議論することはいいことだと思いますが、そういう人がいる限り日本がいつ核兵器を作るようになるかはわかりません。
少なくとも日本が核兵器を持たない国でいられるという保証はありません。
その時に鍵になるのが、原子力発電や六ケ所再処理工場、高速増殖炉もんじゅ、ということになるでしょう。

鎌仲ひとみ監督の映画「六ケ所村ラプソディー」では、「暮らしの根っこ、そこに核がある」という文句があります。
核のない世界、核兵器のない世界を本当に目指すというのなら、私たちの社会や暮らしがどのようにして成り立っているのか、動いているのかを見つめなおさなければならないのかもしれません。



鎌仲ひとみ監督作品・映画「六ケ所村ラプソディー」予告編




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参考文献
「ロッカショ」講談社
「原発事故はなぜくりかえすのか?」高木仁三郎著、岩波新書
河野太郎氏(自民党衆議院議員)が語る「再処理工場の秘密」http://vanillachips.net/archives/20060816_1625.php

posted by 再処理を案ずる府民の会、高野潔樹 at 23:11| ヒロシマ・ナガサキ・原子爆弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長崎に落とされた原子爆弾について

長崎市への原子爆弾投下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日、午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した原子爆弾が投下された。これは実戦で使われた二発目の核兵器である。この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物の約36%が全焼または全半壊した。


長崎原爆の威力

長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾である。 このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆する。 長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。


長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島のそれを超えたとも言われている。もし最初の標的であった小倉に投下されていたならば、小倉市だけでなく隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と山口県の下関まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測される。


長崎原爆投下の背景と経緯

長崎原爆は自然界に極微量しか存在しない元素プルトニウム239を使用する。またプルトニウム原爆はウラン原爆とは異なる挙動を示すため、構造が全く異なるものが必要である。そのため、その開発はウランを使用する広島原爆とは違った道程を辿った。


超ウラン元素プルトニウムの歴史は、まずウラン原子核(原子番号92)の核分裂の実験の際に、原子番号93,94の元素の存在が予言されたことに始まる。1940年に原子番号93のネプツニウムが発見された。次いで1941年2月に原子番号94のプルトニウムがカリフォルニア大学バークレー校のグレン・シーボーグにより発見された。


この頃の世界情勢は1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発しており、またその頃に亡命物理学者レオ・シラードがF・D・ルーズベルト大統領宛に原爆開発の歴史的な進言書を送っていた。

プルトニウムが兵器原爆の原材料としての関心を集めるのも時間の問題であった。

なお1940年3月には「フリッシュ&パイエルス覚書」 (Frisch-Peierls memorandum) により、原爆の実現可能性が示されており、核分裂のエネルギーを利用する軍事研究が既に始まっていた。


プルトニウム生産原子炉

プルトニウムは自然界に極微量しか存在しない超ウラン元素である。従いプルトニウム原爆の第一の関門は如何にしてプルトニウムを生産するかである。プルトニウムはウラン238が中性子を吸収し、二段階のベータ崩壊を起こしてプルトニウム239に変換することにより生成する。この過程を効率よく行う課題があった。

1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発した。この直後、シカゴ大学のアーサー・コンプトンは「冶金研究所」(Metallurgical Laboratory, 隠蔽の為に無関係な名称が付けられた)にてプルトニウムの研究を開始する。研究のため、コンプトンはエンリコ・フェルミ、レオ・ジラード、グレン・シーボーグなど核分裂の研究者をシカゴ大学に呼び集めた。

1942年5月、プルトニウム増殖の技術研究の原子炉シカゴ・パイル1号 (CP-1) の開発が開始した。原子炉CP-1はシカゴ大学キャンパス内のアメフト場 (Stagg Field) に作られ、その年の12月にはパイルは臨界実験に成功する。1942年8月には、シーボーグは計量可能量のプルトニウムの分離に成功する。しかしCP-1はプルトニウムの実生産にはスケールが小さすぎるため、直ちに実生産プラントの計画が始まった。プルトニウム原爆の製造に必要量のプルトニウムを生産するためには、巨大設備が必要であることが判明した。

なお、1942年5月にはジェームズ・コナント(James Bryant Conant, ハーバード大学総長及びNational Defense Research Committee議長)より、ウラン原爆とともにプルトニウム原爆の開発に着手するよう、科学研究開発局局長のヴァネヴァー・ブッシュに進言している。

ブッシュ等は巨費を要する原爆の開発・製造を国家事業とするようにルーズベルト大統領に提言し、大統領はこれを承認した。これをうけ、1942年9月にレズリー・グローヴスを統括指揮官とする秘密国家プロジェクト「マンハッタン工兵管区」が開始された。通称マンハッタン計画と呼ばれる原爆の開発・製造プロジェクトである。

マンハッタン計画の元、プルトニウム生産の巨大プラント建設が始まった…


黒い灰・黒い雨

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/record/black.html

長崎消防署の『原子爆弾記録』に、「閃光に次いで物体の破壊音と共に砂ぼこりを巻き上げ夕やみのようになった」とあるが、この砂ぼこりは「黒ぼこり」ともいわれるように瞬間燃焼の黒い灰のほか、紙片、布切れなどさまざまな微軽量物も含まれていた。その範囲は正確には分っていないが、落下紙片――三菱兵器製作所大橋工場の文書と三菱製鋼所の伝票――から推して、大体、爆心地から半径1,500メートルに及ぶ地域と見られている。地上約500メートルの空中で炸裂した原爆は、まさしく、直径3,000メートルに及ぶ巨大な竜巻を現出したのであった。

この黒い灰や微軽量物は、折柄の南西風(風速3メートル)に乗り、烽火山、帆場岳、日見の山なみを超えて、矢上、戸石、古賀、田結、江の浦など、長崎市東北部の各村に飛散した。
このため、サツマイモ畑は薄白くなり、サトイモの葉には、はっきり字が書けるように積もった。
なお、布切れや紙切れは、喜々津村(現在諫早市)や諫早市にも飛来した。


黒い雨

長崎の黒い雨についての学術的記録は少なく、わずかに、残留放射能で知られる西山四丁目の雨がある。このほか、仁科博士の『仁科芳雄ノート』に、
 「長崎 東ノ方ニ雨フル 少シパラパラ何レニシテモ bomb-effect」

と見える程度である。この原爆の影響による黒い雨について、広島の場合、

「降雨は爆撃の閃光後20分〜一時間後に降り始めたものが多く、中には火災によって発達した収斂性上昇気流に起因すると思われるものが2時間後に降り始めた地区もあった。すなわち、降雨は爆撃による直接的な上昇気流による降雨と、爆弾から起こった火災による間接的な作用に基く上昇気流が重なって現われたということができる」また、「雨水の性状は非常に特殊で、最初のうちは黒い泥分が多く粘り気を感じさせる程であった。この雨水は一〜二時間継続し、次第に色が薄れて遂に普通の白い雨となった」

とある。これは、日本学術会議調査団の報告であるが、その降雨量は別として、時間帯や雨の性状については、大体、長崎にもあてはまるようである。

 手記や証言によると、医大附属病院裏の丘陵、本原町、穴弘法、金比羅山、西山4丁目付近にかけての地域が多い。その他西部では瓊浦中学校付近、北部では住吉トンネル工場付近、川平地区等で降雨を見ており、また南東部では寺町付近でも少量の降雨があった。
 本原町付近では、黒い雨が降った。

西山4丁目は爆心地から東に約2.5キロ、丁度、金比羅山頂の真裏にあたる。この付近の雨については、先にいったように日本学術研究会議特別委員会学術調査団によって調査がおこなわれ、「だいたい、その当時の風下になっており(風速3メートル)爆発の20分ばかり後に雨が降ったので、その時、放射性物質が、長崎市から巻き上げられたほこりとともに、落下したものと思われる」と報告がある。

 この付近の土壊からは、放射性物資が検出され、爆発直後に集中的に黒い雨が降ったものと見られている。






posted by 再処理を案ずる府民の会、高野潔樹 at 22:17| ヒロシマ・ナガサキ・原子爆弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月07日

広島におとされた原子爆弾について

広島市への原子爆弾投下(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

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第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、アメリカ軍が日本の広島県広島市に対して投下した原子爆弾(以下『原爆』と記す)は実戦で使われた世界最初の核兵器である。この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約14万人が死亡した。

8月2日、グアム島の第20航空軍司令部から、テニアン島の第509混成部隊に以下に示す極秘野戦命令が通達された。

作戦命令書13号 1945年8月2日

攻撃日 8月6日
攻撃目標 広島中心部と工業地域
予備第2目標 小倉造兵廠および同市中心部
予備第3目標 長崎市中心部
特別指令 目視投下に限ること

原爆の威力
広島原爆は約50キログラムのウラン235が搭載されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。爆発で放出されたエネルギーは63兆ジュール、TNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。エネルギーは爆風(衝撃波)・熱線・放射線となって放出され、それぞれの割合は50パーセント・35パーセント・15パーセントであった。

なお、B-29の通常爆弾最大積載量は5トンであるから、B-29の3,000機分の通常爆弾が一度に投下されたことに相当する。比較として東京大空襲(1945年3月10日)の攻撃B-29は344機であるから、投下された爆弾(焼夷弾)は総計1,720トンであった。すなわち、広島原爆(15,000トン)はこの東京大空襲の約9倍相当の規模のエネルギーを、東京の10分の1程度の都市の上に一時に投下/放出したことになる。


爆風

爆発の瞬間の爆発点の気圧は数十万気圧に達し、これが爆風を発生させた。

爆心地における風速は440m/s以上と推定されている。これは音速349m/s[10]を超える超音速の爆風であり、前面に衝撃波を伴い爆心地の一般家屋のほとんどを破壊した。

比較するとこの風速は、強い台風の中心風速の10倍である。そして、爆風のエネルギーは風速の3乗に比例する[11]。すなわち、原爆の爆風は、エネルギー比では台風の暴風エネルギーの1,000倍の爆風であった。

また爆心地における爆風圧は350万パスカルに達した(1平方メートルあたりの加重が35トンとなる)。半径1キロメートル圏でも100万パスカルである。耐震設計の鉄筋コンクリート建築以外の建造物は、爆風圧に耐え切れずに全壊した。半径2キロメートル圏で30万パスカルとなり、この圏内の木造家屋は全壊した。


熱線

核分裂で出現した火球の表面温度は数千度に達した。即ち、地上から数百メートルの地点に第二の太陽が現れた事に相当する。 火球から放出された熱線エネルギーは22兆ジュール(5.3兆カロリー)である。熱線は赤外線として、爆発後約3秒間に大量に放出された。地表に作用した熱線のエネルギー量は距離の2乗に反比例する。地表で受けたエネルギーは、爆心地では平方センチあたり100カロリー、500メートル圏で56カロリー、1キロメートル圏で23カロリーであった。

比較すると、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当する。

このような極めて大量の熱量が短期間に照射される特徴から、熱が拡散されず、照射を受けた表面は直ちに高温となった。爆心地付近の地表は3,000 - 4,000℃に達した。屋根瓦は表面が溶けて泡立ち、また表面が高温となった木造家屋は自然発火した。


放射線

核分裂反応により大量のアルファ線・ベータ線・ガンマ線・中性子線が生成され、地表には透過力が強いガンマ線と中性子線が到達した。さらに地表では中性子線により放射化され、誘導放射能が生成された。

爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチあたり高速中性子が1兆2千億個、熱中性子が9兆個と推定されている。

原爆投下後、広島赤十字病院の地下に残っていた未使用のレントゲンフィルムが放射線によって全て感光していたため、広島へ落とされた新型の爆弾は原爆だと決定付ける証拠となった。


黒い雨
原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流に吹き上げられた粉塵が上空で拡散したため、あのように特徴的なキノコ形になったものと考えられる。

低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。雲は急速に上昇し、湿った熱気は上空で冷やされ雨を降らせた。この雨は爆風が舞い上げた大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒で大粒の雨粒が降り注いだ。この雨を黒い雨という。

当日の上空では南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動し、黒い雨の降雨領域は市内から北北西方向へ伸びる長径19km、短径11kmに広がった。この雨は放射性降下物を含んでいたため、雨を浴びた者を被曝させ、土壌や建築物及び河川を放射能で汚染した。原爆の子の像のモデル・佐々木禎子も黒い雨を浴びたことが原因で被曝している。

爆心地

爆心地500m圏内では閃光と衝撃波が殆ど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊した。木造建築は全数が全壊した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破した。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。

また強力な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発した。苦悶の姿態の形状を示す「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。

丁度、爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま、黒焦げの遺骸を乗せて慣性力で暫く走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士[21]もいた。

この地域での生存者は極僅かであるため、状況の手掛りは少ないが、爆発で飛ばされて失神し、それから覚めた直後は一寸先も見えない闇の世界であった。原子雲と爆風で舞い上げられた大量の粉塵が太陽の光を完全に遮断したためである。その闇の中で、高温に熱せられた木造建築等の発火が始まっていた。

この爆心地直下の圏内の生存者で広く知られているのが、核爆発の瞬間には燃料会館の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた男性(昭和57年6月死去)である。燃料会館は爆心直下の島病院や産業奨励館の直近170mに位置した爆心地であった[22]。


全壊全焼圏内

爆心地1キロメートル地点から見た爆心点は上空31度、2キロメートル地点で17度の角度となる。したがって野外にあっても運良く塀や建物等の遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受けた体の部位が一瞬にして重度の火傷を負った。野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生等は隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校も多かった。また彼らは熱線照射の直後の爆風(核反応の熱で急速に膨張した高温高速の空気が作る衝撃波)で数メートルから十数メートル吹き飛ばされ、地面や構造物に強く叩きつけられて昏倒した。さらにこの爆風は屋外の被爆者の衣類を剥ぎ取り、ほとんどは裸となった、そして、爆風は火傷を負った表皮をも皮膚組織から剥ぎ取った。昏倒から覚めた被爆者は自分の腕の皮膚が剥がれて垂れ下がり、爪のところでようやくつながっていることを知る。背中全体の皮膚がはがれ、腰からぶらさがっている者もいた。強い衝撃で眼球が眼窩から飛び出した者、腸が腹腔から飛び出して苦悶する者もいた。

建物の内部にいた者は熱線の直射は避けられたものの、放射線は防げなかった。次の瞬間に襲った爆風により、爆心地から2キロメートル圏内の木造家屋は一瞬にして倒壊したため、家屋の瓦礫の下に閉じ込められた。また、鉄筋コンクリートの建物などでは爆風で窓から吹き飛ばされたガラスの破片が頭や体に突き刺さり、そのままの状態で避難の列に加わる者も多かった。自力で脱出した者、もしくは他者に助け出された者の他は、熱線の照射による発火で起こった家屋の火災に巻き込まれて、生きながら焼かれて死亡した。火災は同時多発に発生して大火となったため、家屋の下から助けを求める家族・知人の声を聞きながらもやむなく見捨てて逃げることしかできなかった者も多かった。そして逃れた者も家屋倒壊の際に様々な外傷を受けていた。彼らは水と安全なところを求め、市内を流れる川へ避難をはじめた。

火災は市内中心部の半径2キロメートルに集中していた家屋密集地の全域に広がった。大火による大量の熱気は強い上昇気流を生じ、それは周辺部から中心への強風を生み出し、火災旋風を引き起こした。風速は次第に強くなり18メートル/秒に達し、さらに旋風が生じて市北部を吹き荒れた。火災は半径2キロメートル以内の全ての家屋、半径3キロメートル以内の9割の家屋を焼失させた。


被爆者


爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も6日目までに約半数が死亡、次の6日間でさらに25パーセントが死亡していった。

11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。

なお、原爆が投下された際に広島市内には米軍捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。[29]


短期的影響

熱傷

原爆から照射された熱線は強烈な赤外線・紫外線・放射線を含んでおり、約600メートル離れたところでも(瓦の表面が溶けて泡状になるという現象から)2,000度以上に達したと見られる。爆心地から1キロメートル以内では5度の重い熱傷を生じ表皮は炭化し、皮膚は剥がれて垂れ下がった。熱線による被害は3.5キロメートルの距離にまで及んだ。また熱線にて発火した家屋の火災による第2次熱傷を受けた者もいた。爆心地から1キロメートル以内で屋外被爆した者は重い熱傷のため、7日間で90パーセント以上が死亡している。爆心から20キロメートル離れた呉の海軍基地や可部地区や大野地区では、戸外に出ていた人は熱傷を負わずとも「熱い」といった温感を瞬間感じた。


外傷

原爆の爆風により破壊された建物のガラスや木片等が散弾状となり全身に突き刺さって重傷を負ったものが続出した。戦後何十年も経過した後に体内からこのときのガラス片が見つかるといった例もあった。
また、爆風により人間自体が吹き飛ばされて構造物等に叩きつけられ全身的な打撲傷を負ったり、体への強い衝撃により眼球や内臓が体外に飛び出すといった状態を呈した者もいた。
このような全身的な被害をうけた者は大半が死亡した。


放射能症

爆心地における放射線量は、103シーベルト(ガンマ線)、141シーベルト(中性子線)、また爆心地500メートル地点では、28シーベルト(ガンマ線)、31.5シーベルト(中性子線)と推定されている。すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、即日死ないしは1ヶ月以内に大半が死亡した。また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した(参照:人体に対する放射線の影響)。

急性放射線症では、細胞分裂の周期が短い細胞よりなる造血組織・生殖組織・腸管組織が傷害を受けやすい。

症状は、悪心・嘔吐・食思不振・下痢・発熱から始まる。さらに被爆から2週間後ごろに放射能症に特徴的な脱毛が始まる。20日過ぎごろより皮下出血斑(点状出血)、口腔喉頭病巣を生じる。また、大量の放射線により骨髄・リンパ腺が破壊され、白血球・血小板の減少など血液障害を起こす。

なお、6シーベルト以上の放射線を浴びた被爆者は、腸管障害(消化管組織の破壊により消化吸収不能となる)により、1ヶ月以内に大半が死亡した。


二次被爆

大量の中性子線は誘導放射能を生み、それにより被曝したのが二次被爆者である。原爆投下の直後に爆心地へ入市し救援活動等で数時間滞在した者は0.2シーベルト、翌日に入市し同様に活動した者は0.1シーベルトの被曝をした。

当日の上空では南東の風が吹いており、キノコ雲は徐々に北北西へ移動しやがて崩壊、日本海方面へ流れていった。このことでさらにフォールアウトにより被曝した二次被爆者が発生した。特に市北西部の南北19キロメートル×東西11キロメートルの楕円形の領域において黒い雨が1時間以上強く降っており、雨に当たったり雨で放射能汚染されたものに触れた住民は被曝した。戦後の調査研究で、黒い雨のほか広範囲で灰状の黒い粉塵の降灰が6日15時頃まであった等、市外にまで深刻な放射能汚染をもたらしていたことが判明している。また、被爆者の収容・救護にあたった者も放射能汚染された衣類や頭髪に触れて被曝する例が多かった。当時は放射能汚染の危険性を知る者は物理学者や軍関係者、医療関係者といったごく限られた者に限定されていたため、除染が殆ど実施されなかったことも影響した。


長期的影響

熱傷・ケロイド

爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。しかし、3 - 4ヶ月経過して後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起し、いわゆるケロイドを生じた。ケロイドは外科手術により切除を試みても、しばしば再発した。特に年頃の女性被爆者は心に深い傷を刻み込まれた。彼女等は「原爆乙女」と呼ばれた。


放射線症

被爆して大量の放射線を浴びた者は、白血病の発症率が増加した。発症の頂点は1951年、1952年であり、その後は徐々に発生率が下がる。広島被爆者では慢性骨髄性白血病が多く、受けた放射線の被曝線量の増加にほぼ比例する形で白血病発生率が増加している。また、若年層ほど白血病の発症時期が早かった。発症すると、白血球が異常に増加し、逆に赤血球等の他の血液細胞が減少して障害をまねく。さらに白血球の機能も失っていく。

1950年代は白血病には治療法がまだなく、代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子は、わずか12歳で白血病のために亡くなっている。

以降は癌の発症が増加した。多臓器に繰り返し発症する例がしばしば見られ、被爆者を長期間に渡り苦しめている。これら被爆者の遺伝子染色体には異常が見られることが多く、放射線による遺伝子破壊が癌を招いている可能性も指摘されている[30]。


胎内被爆

原爆が投下された当時、母親の胎内にいて被爆したことを、胎内被爆という。胎内被爆により、小頭症を発症する者がいた。これは同年齢の者の標準に比べて、頭囲が標準偏差の2倍以上小さい場合を言う。諸説あるが、被爆時に胎齢3週 - 17週の胎内被爆者に多く発症した。小頭のほか、身体や脳に発育遅延が認められ、成人前に死亡した例もある。一般的に「原爆小頭症」と言われている。「最も若い被爆者」と言われるが、現在は皆が還暦を迎える年齢になり、彼らの肉親も相当の年齢に達しており、将来的な不安も多々挙げられている。


精神的影響

原爆の手記を分析した結果によると、3人に1人が罪の意識(自分だけが助かった、他者を助けられなかった、水を求めている人に応えてあげられなかった等々)を持っていることが判明した(一橋大石田による調査)。このような自責の念により被爆者は肉体的苦痛のみならず、精神的にも苛まれ続けたのである(参照:サバイバーズ・ギルト、心的外傷後ストレス障害)。


社会的影響

これら上述してきた事象、被爆者の苦しみ、破壞し尽くされた都市の惨状は、戦後の日本においては民間の反核運動のみならず、政府レベルにおいても非核三原則などを生み出す要因の一つとなり、さらには世界的な反核運動の原動力の一つともなった[31]。

また、原子力発電、原子力船(むつ)などといった平和的なものも含めて原子力の利用というそれ自体への強い拒否的な感情、さらに言うならば原子力や核物質それ自体に対する恐怖感と不安感を与えた。


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広島市への原子爆弾投下(wikipediaより抜粋)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B






posted by 再処理を案ずる府民の会、高野潔樹 at 01:10| ヒロシマ・ナガサキ・原子爆弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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